水子とは命の灯を得たにもかかわらず、この世の中に生まれず命を絶たれた子供たちであります。水子は本来はこれら胎児だけでなく、乳幼児も含まれていたそうです。ある水子は折角の命を祝ってもらえず、親となるべき者から人工的に命を絶たれ、ある水子は命の誕生を喜ばれたものの、ふとしたことから流れてしまった命もある。この世の中に誕生していれば楽しいことを色々経験していることもあったろうに、という贖罪の意味も込められています。
水子供養が始まったのは、戦後中絶の風潮が広まり、そのことを戒める意味で始まったのではないかと考えられます。水子供養の仕方としては、特に改まった形式はありません。心からこの世に生まれずして、命を絶たれた水子に謝ることです。別に形式に拘らなくてもかまわないのです。しかし、お寺に通う事でより水子と会話しやすくなります。水子供養は、どのお寺で行っても同じではありません。有名なお寺と言えども、様々なオプションをつけるなど、商魂にたくましいお寺は敬遠したいところです。風光明媚なお寺で抱かれていると、水子も母親も心から安心するものです。
お寺によっては戒名をつけてくれたり、お経をあげてくれるところもあれば、水子地蔵を買って供養するだけなど、行っている供養の内容は様々です。私の信頼してる常光円満寺のお言葉が一番正しいのではないでしょうか。「亡くなった人を思う気持ちが大切で、形式はこだわる必要はないのです」というお言葉ですが、本当にそれが正解だと思います。もちろんこちらの常光円満寺も水子供養の方は多いそうです(安産祈願でも有名)。多分、このように言って頂いた方が気が楽になりますよね。